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【西塔】(さいとう)/ 「壇上伽藍」和歌山県伊都郡高野町

【西塔】(さいとう)/ 「壇上伽藍」和歌山県伊都郡高野町

 

壇上伽藍は、〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥の院と並んで信仰の中心として大切にされてきました。境内には根本大塔、金堂など19の建造物が建ち並びます。

 

【西塔】(さいとう)
お大師さまの伽藍建立計画案である『御図記(ごずき)』に基づき、高野山第二世である真然大徳によって建立されました。お大師さまは、大塔と西塔を、大日如来密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立する計画をお持ちでした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、お大師さま入定後の仁和2年(886年)に完成に至ったものです。 西塔では、大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来胎蔵界四仏が奉安されています。現在の塔は、天保5年(1834年)に再建された、擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で、高さは27.27メートルです。 根本大塔 お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。

 

 

アクセス:南海高野線の終着駅極楽橋駅より、南海鋼索線(ケーブルカー)で高野山駅下車。南海りんかんバスまたはタクシーで乗り継ぎ。

 

(撮影:2018/5/6)

【壇場伽藍(壇上伽藍)】について

 

壇場とは曼荼羅の道場の意。伽藍地が一段高い土地にあるため、一般には「壇上伽藍」と表記される場合が多い。高野山内の西寄り、金堂、根本大塔、西塔、御影堂などの立ち並ぶ一画で、高野山の聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、真言密教の道場としての高野山の中核となる部分。
境内には根本大塔、金堂など19の建造物が建ち並びます。

 

 

「中門」 - 平成27年(2015年)4月2日落慶。172年ぶりの再建である。焼失以前の中門には持国天多聞天の二天像が安置されていたが、2015年に落慶した中門には上記の二天に増長天広目天像を加えた四天王像が安置されている。持国天多聞天像(江戸時代末期の作)は、旧・中門の焼失時に難をのがれ、寺内に保管されていたものを、2015年落慶の新・中門に再び安置した。増長天広目天像は仏師松本明慶により新造されたものである。持国天多聞天像の修理も松本明慶が担当している。

 

「金堂」 - 昭和元年(1926年)に焼失後、昭和9年(1934年)に再建された鉄筋コンクリート造、屋根は入母屋造の建築で8代目になる。現本尊は薬師如来(阿閦如来)で、金堂再建時に新造された高村光雲の作である。1926年の焼失時、堂内には旧本尊を始め7体の仏像が安置されていたが、堂と共に焼失した。旧本尊像は公開されたことのない秘仏であった。旧本尊の像名については、古来阿閦如来とする説と、薬師如来とする説とがあり、両者は同体であるという説(薬師如来だが像容は阿閦如来であるとする)もあった。高村光雲作の本尊像は高野山開創1200年を記念し、2015年4月2日から5月21日までの間、初めて開扉された。本尊の両脇に安置されていた6体の仏像(金剛薩埵坐像、金剛王菩薩坐像、不動明王坐像、降三世明王立像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像)については、焼失以前に撮影された写真が残されており、作風から見て、空海の時代からあまり隔たらない9世紀頃に作られた密教像として、極めて貴重なものであった。

 

 

「登天の松 」- 平安時代の高僧がこの地で昇天したといわれる。

 

「六角経蔵」 - 別名荒川経蔵。1933年再建。

 

「明神社」(重要文化財) - 文禄3年(1594年)再建。「御社」(みやしろ)。重要文化財指定名称は「山王院本殿」。弘法大師弘仁10年(819年)に山麓の丹生都比売神社(天野社)から地主神として勧請、高野山の鎮守としている。高野山開創の伝承にあるが、高野山一帯は丹生(にう)明神の神領であり、弘法大師密教を広めるには、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出し、神仏習合思想の大きな原動力になる。高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は現在でも大切にされている。 社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神(狩場明神)、三宮は総社として十二王子・百二十伴神がまつられ 丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられている。

 

 

「山王院」 - 文禄3年(1594年)再建、明神社の拝殿として建てられた。両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物であり、桁行21.3メートル、梁間7.8メートル。山王院とは地主の神を山王(さんのう)として礼拝する場所の意味。堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われ、高野山の鎮守たる明神(みょうじん)さまに神法楽(じんほうらく)として捧げられている。

 

「西塔」(重要文化財) - 「根本大塔」とは対照的に、金剛界大日如来像と胎蔵四仏を安置する。仁和3年(887年)初代塔建立、現在の塔は5代目で天保5年(1834年)の再建。

 

 

「孔雀堂」 - 昭和55年(1980年)の再建。本尊の快慶作の孔雀明王像は霊宝館に移され、当堂には模造を安置。

 

 

「准胝堂」 - 明治16年(1883年)再建。本尊は准胝観音(准胝仏母)。

 

「御影堂」 - 弘化4年(1847年)再建。空海の弟子の真如親王筆とされる弘法大師御影を本尊とする。毎年旧暦3月20日の前夜の御逮夜法会のときのみ一般の内陣参拝が許される。

 

「三鈷の松」 -金堂と御影堂の間にある三葉の松。松の根が参拝者に踏まれないよう二重の柵で囲まれ、赤松と一緒に植栽されている。松は単体では生育しにくい性質を持つためにあえて、植栽している。空海が、恵果から密教を受法後、大同元年(806年)、中国・寧波の浜から、「密教を弘通するため」の地を求めんと願いつつ、三鈷杵(飛行三鈷杵)を投げた。後に嵯峨天皇より、勅許を得て高野山を下賜され、伽藍を造営の途中に、空海が松に掛かった三鈷杵を見つけ、高野山を「修禅の道場」とするのに相応の地であると確信したという伝説がある。空海の霊跡とされる。この松葉は、三鈷杵と同じく三股に別れている。現在の「三鈷の松」は七代目で、平成期に植え替えられた。枯れたときのために同じ株から分けた松を別に育成している。松は常緑樹が多いが、高野山の「三鈷の松」は秋から冬にかけて落葉するので、「再生」の象徴される。

 

 

「根本大塔」 - 金堂の右後方にある多宝塔(1階平面が方形、2階平面が円形の二重塔)。1937年(昭和12年)、空海入定1,100年を記念して再建したもので、鉄筋コンクリート造である。内部正面の梁には昭和天皇宸筆の勅額「弘法」が掲げられている。中央に胎蔵大日如来像、その四方に金剛界四仏を安置する。塔内の柱などに描かれた仏画は堂本印象の筆である。本来別々の密教経典に説かれている「胎蔵曼荼羅」の仏像と「金剛界曼荼羅」の仏像を一緒に安置するが、これは、両者は根本的には1つだという、空海の思想を表したものといい、「根本大塔」という建物名もこれに由来するという。

 

 

「大塔の鐘」 - 大銅鐘「高野四郎」を吊る鉄筋コンクリートの鐘楼。「高野四郎」は元和4年(1618年)に福島正則が母の菩提を弔うために鋳造したもの。