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【高安古墳群周辺の古墳】大阪府八尾市

【高安古墳群周辺の古墳】 大阪府八尾市

 

高安古墳群周辺の古墳に「愛宕塚古墳(あたごづかこふん)」があります。愛宕塚古墳は大阪府八尾市神立にあります。八尾市の東には高安山(488m)を含む生駒山地が南北に広がっています(金剛生駒国定公園)。高安山の向こうは奈良県になります。高安山一帯の山麓は旧高安郡に属し、愛宕塚古墳がある地は、扇状台地の高燥地です。愛宕塚古墳はこの扇状台地上の十三峠道の入口にあります。この台地上には前期、後期の単独の古墳が散在しています。北から前期の「西ノ山古墳」、「花岡山古墳」、「向山古墳」、後期の愛宕塚古墳が一列にならび、中期の「心合寺古墳」が向山古墳の西方にあります。さらにその西方、高野街道に「鏡塚古墳」があります。高野街道の郡川には中期~後期にかかる東塚と西塚があります。高野山の西斜面には、有名な高安古墳群が分布しています。

 

 

愛宕塚古墳(あたごづかこふん)」 神立地区23号墳

 

外形の直径は22.5m、高さ9mですが、羨道入口部の両側に4m、長さ3.6m、高さ2mの土手状の突部みられるので、単なる円墳というよりは、ホタテ貝形です。石室は西側壁で15.7m、玄室長7m、玄室幅、玄門基底3.1m、奥壁基底2.5m、玄室高3.9m~4.2m、玄門西袖幅は0.75m、東側0.4mです。羨道西側壁8.7m、幅は羨門付近で2.15m、高さは玄門付近で2.2mです。

 

 

愛宕塚古墳の再利用

 

この愛宕塚古墳は追葬を含めて6世紀末には墓としての機能が安定し、その後約200年程、安らかな霊地となっていました。ところが出土品のなかに平安時代初期の須恵器2点が認められる他、平安中・後期、鎌倉時代の黒色土器、瓦器、土師皿、羽釜などが検出されているので、平安時代になってから、愛宕塚古墳は再び利用されています。その理由は明らかにはなっていませんが、追善供養的なことが始められたのか、または、中世墓として利用されたのかもしれません。室町時代五輪塔や人骨が出土していますのでこの時期は墓所として利用されていたと考えられます。その後は、近世には古墳名となった愛宕信仰として利用されたと考えられます。

 

 

 

 

 

 

所在地:大阪府八尾市神立4丁目
アクセス:近鉄服部川」駅から徒歩約23分
周辺には住宅地もあり、古墳の中でも携帯は使えます。

 

↓ iPodtouch6で撮影してYouTubeへアップした動画です。

 


【愛宕塚古墳】 (Atagozuka-kofun) ① / 高安千塚古墳群

 


【愛宕塚古墳】 (Atagozuka-kofun) ② / 高安千塚古墳群

 


【愛宕塚古墳】 (Atagozuka-kofun) ③ / 高安千塚古墳群

 


【愛宕塚古墳】 (Atagozuka-kofun) ④ / 高安千塚古墳群 *古墳上部から八尾市方面の眺め。

 

 

 

 

 

「西ノ山古墳(にしのやまこふん)」

 

古墳時代前期の南面する前方後円墳です。もと楽音寺の村落がこの地の東の山麓にあった当時に古墳のある丘が「西ノ山」と呼ばれていたところから、そのまま古墳名として残っています。明治十四年(一八八一)開墾中に後円部から石棺が発見され、その中から人骨、勾玉、刀剣などが出土しました。現在、前方部は耕されて植木畑となっています。南の谷をへだてて、同じく前期の前方後円墳の「花岡山古墳」がありました。

 

花岡山古墳について:元和元年(1615)5月の大坂夏の陣には、徳川秀忠がここに陣をとって東軍を指揮しました。江戸時代には前方部の所に福生院という寺院がありました。現在は大阪経済法科大学となっています。現場の隣接する「熊野神社」境内からは、西方一面に大阪平野が望めます。

 

所在地:八尾市楽音寺7丁目(大阪経済法科大学付近)
アクセス:近鉄服部川駅から徒歩10分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊野神社(くまのじんじゃ)」について

 

熊野神社分神鎮座記念碑があります。これによると、
「昔、楽音寺熊野神社は、西の山の東金比羅屋敷にありましたが、明治初期に、貴島康彦先祖の土地である当地に移されたが、その後倒壊し、御身(神)体は、神立にある郷社玉祖神社に預けられました。昭和三十一年七月十五日、当神社再建にともない、預けた御身体を持ち帰ったが、御神体名については宮司並びに村民に尋ねたが誰一人として知る人がおらず、故に村の三役によって熊野本宮大社へ参り、宮司様とお会いして由来を聞いた。それによると「京都より摂津和泉を過ぎ当国に入り田辺より近露を経て当地に至る沿道に諸王子社あり、古くは、衰微(すいび)して僅かに地名のみ そのあとを止めている状況であります。全国に分布する熊野神社の分社は5千社あって大阪府下には六十余社が分神としてまつられている」とのことであり、当神社もその一つであることが判明したので、昭和五十七年七月十五日、新たに分神として迎え、之を記念し建立したものである。」となっています。
衰微:物事の勢いが衰えて弱くなるさまを意味する語。

 

所在地:八尾市楽音寺7丁目(大阪経済法科大学付近)
アクセス:近鉄服部川駅から約徒歩30分。近鉄バス「楽音寺」から徒歩約10分

 

 

 

 

 

 

 

 

「花岡山古墳(はなおかやまこふん)」

 

西の山古墳から、南の谷をへだてて、古墳時代前期に造られた前方後円墳の「花岡山古墳」があります。大阪経済法科大学内にありますので許可なく入ることはできません。
元和元年(1615)5月の大坂夏の陣には、徳川秀忠がここに陣をとって東軍を指揮しました。
昭和30年代に消滅してしまい、現在は大阪経済法科大学正門傍に碑が立てられています。

 

 

 

 

「向山古墳(むかいやまこふん)」

 

古墳時代の前期に属し、独立丘陵を利用して設けられた西向きの前方後円墳です。墳丘は早くから開墾されて植木畑となり、後円部は一部が採土されています。後円部南側の池畔に平安時代末期の窯跡があり、いまも窯の一部が遺っています。ここで焼かれた瓦は宇治の平等院、京都の醍醐寺をはじめ近畿各地に運ばれています。

 

所在地:八尾市大竹8丁目
近鉄服部川」駅から徒歩25分。

 

 

 

 

「心合寺古墳(しおんじやまこふん)」

 

全長約160メートルの規模を有する。後円部の直径が約92メートル・高さ約13メートル、前方部の幅が約90メートル・高さ約12メートルの前方後円墳である。前方部が南方、後円部が北方にあり、墳丘は三段築成となっている。 また、生駒山地の麓に等高線に沿うように築かれて、周濠は南側と北側の2か所で堤を造って区切られているため、その東西で水位の異なる珍しいつくりとなっている。
近年、史跡公園として整備され、墳丘の平坦部には円筒埴輪(レプリカ)が並べて立てられている。復元整備にあたって、後円部中腹にある2本のキリの大木を保存する案と伐採する案があったが、結局残すことになった。 これまでの発掘調査で出土した副葬品等は、古墳の脇にある「八尾市立しおんじやま古墳学習館」で展示されている。
古墳時代の中期、5世紀初め頃に作られたといわれる。当時このあたりを支配していた豪族の墓と考えられている。

 

所在地:大阪府八尾市大竹5丁目
アクセス:近鉄大阪線河内山本駅から近鉄バス瓢箪山駅」行きで大竹停留所下車、
     徒歩約5分

 

 

 

 

↓ iPodtouch6で撮影してDailymotionへアップした動画です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「鏡塚古墳(かがみづかこふん)」

 

標高一七メートル、俗に松山とか腹痛山といわれています。墳丘の上部には粘土槨が残り、また火葬跡が2カ所発見され、石櫃の蓋の破片が出土しています。これもこの古墳の跡に、後にここで火葬が行われて、相ついで葬られたものです。周辺から出土した円筒埴輪や朝顔形埴輪、蓋埴輪から5世紀末頃の環濠式前方後円墳と考えられます。数年前に採土され、その跡に小神祠をまつります。入口のところに宝山神社の碑があります。昭和三十四年四月、大阪府から史跡として指定されました。

 

 

 

所在地 :大阪府八尾市大竹5丁目182
アクセス:近鉄服部川」駅から徒歩約26分/近鉄バス「楽音寺」から徒歩約3分