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kazu1000のブログ / 社寺仏閣巡り 社寺仏閣巡りが好きです。特に神社が好きで関西を中心に廻っています。Instagram:https://www.instagram.com/kazuyoshi1000

投稿した写真が Google で新記録を達成!閲覧回数 1,500,000 回 【生安寺】(しょうあんじ)大阪府柏原市

投稿した写真の閲覧回数が 1,500,000 回を超えました。
Google マップでの自己新記録です。

 

 

 

 

👇 融通念仏宗【生安寺】(しょうあんじ)大阪府柏原市

 

 

 

 

 

 

 

投稿した写真が Google で新記録を達成!閲覧回数 450,000 回 【住吉神社】(東大阪市)

投稿した写真の閲覧回数が 450,000 回を超えました。
Google マップでの自己新記録です。

 

 

住所:大阪府東大阪市鴻池徳庵町 7
アクセス:JR片町線徳庵駅」から約500m。

 

 

 

 

 

👇こちらは大東市の【住吉神社】(すみよしじんじゃ)

 

 

【大宮神社】(おおみやじんじゃ)大阪市旭区

【大宮神社】(おおみやじんじゃ)大阪市旭区

 

ご祭神は、応神天皇神功皇后姫大神大国主神事代主神・鬼門守護大神他。
由緒について;
大宮神社の創建は、今から約800年昔、文治元年(1185年)2月、源義経平氏追討の為下向の際、この地に一泊し、その時に宇佐八幡の神の霊夢を見、目覚めてみれば、一樹の梅の古木に霊鏡が掛けられていました。義経は吾に神助ありと勇気百倍、その鏡を奉じて平家を討ち滅ぼし、後鳥羽上皇に奉上して神社建立をお願いして許され、この地に社を建てて大宮八幡宮と称したと伝えられています。摂津誌に記されている「南島神社」は当社のことです。降って天正11年(1583年)豊臣秀吉大阪城を築くに当たり、当社を「鬼門守護神」として崇め、社殿、末社を建立、神域を整備しました。
 その後、明治40年9月に産土神社他6社を合祀し、明治45年4月に大宮八幡宮を改め大宮神社と称し現在に至っています。

 

 

 

住所:大阪府大阪市旭区大宮3丁目

 

(撮影:2017/12/10)

 

【八坂瓊神社】(やさかにじんじゃ)大阪府守口市

【八坂瓊神社】(やさかにじんじゃ)守口市大庭町

 

淀川の河川敷の側に鎮座しています。「瓊」は難しい字です。京都の八坂神社からの勧請だそうです。御祭神は、素盞鳴尊。本殿の横に「白龍稲荷神社」があります。
由緒について書かれていたのは次の通りです。
当神社の創立の年代は、さだかではないが。いにしえの昔より鎮座されていたと記されていいる。京都祇園の八坂神社やの御祭神を勧請したと伝えられ、文化十年(1817)九月二十日より京都葉室殿の御祈願所となり、御年例祭には葉室殿より高張提灯御紋付二張、御膳一膳、青銅一貫匁を供進せられた。社殿は慶長年間大阪の役に兵火のため炎上し、元和九年(1913)九月十六日に藤原朝臣 赤楚藤兵衛が造営した。現今の社殿は、明治十一年(1878)三月十日その直系、赤楚重五郎、同赤楚与八が造営したものである。
当時の神社敷地は、約四百坪を有し、境内末社に「稲荷神社」と「開墾神社」が祀ってあったが、いにしえに廃社となった。

 

 

(撮影:2017/12/10)

 

【佐太天神宮】(さたてんまんぐう)大阪府守口市

【佐太天神宮】(さたてんまんぐう)大阪府守口市

 

京阪国道(一号線)の交差点(佐太中町7)の近くに【佐太天神宮】(さたてんまんぐう)があります。ここへは車が便利かもしれません。

 

由緒については;
当地は菅原道真の領地であったところで、901年(昌泰4年)道真が太宰府に左遷され、赴任途中に当地でしばらく滞在したと伝えられる。道真は、宇多法皇の計らいで、自分の無実が証明されるかもしれないと、一縷の望みを持ち、ここで都からの沙汰を待ったが、一向にその沙汰もなく、筑紫へ下向することとなった。当地の地名である「佐太」はこの「沙汰」が訛ったといわれる。
 道真は出立に際し、自身の木像と自画像を残し、この時楊枝を土に挿し、「わが身の無実の証拠として二葉の松となって生い栄えよ」と誓ったところ、程なく発芽し、見事な松の木に成長したと伝わる。(これと非常によく似た伝説が淀川の対岸の摂津市の三本松神社にも残されている。)
 道真が太宰府でなくなってから50年後の天暦年中(947~57年)に、里人がその徳を慕い、道真が残していった木像を御神体として祀ったのが、当社の創建とのことである。

 

 

住所:大阪府守口市佐太中町7丁目
アクセス:京阪寝屋川市駅から京阪守口駅行きで「仁和寺」で下車、淀川の堤防に向かって徒歩約700M。

 

 

 

(撮影:2017/12/10)

 

【仁和寺氏神社】(にわじうじじんじゃ) 大阪府寝屋川市

仁和寺氏神社】(にわじうじじんじゃ) 大阪府寝屋川市

 

鳥居をくぐってすぐ右側に「仁和寺庄の古跡」(にわじしょうのこせき)の説明書きがあります。「仁和寺は古くは「にわいじ」とよんだこともあったようです。地名は京都仁和寺(にんなじ)の所領であったことに由来すると考えられます。」など書かれてあります。

 

仁和寺氏神社】(にわじうじじんじゃ)の由諸について;
 当神社は、元からここに鎮座されたのではなく、延宝二年(一六七四)六月十六日の淀川の仁和寺堤防が決壊して、社殿が流され村の田畑は皆川砂を冠ったもので、その上砂を村の中央に集めて耕地の復旧を図り、その砂山の地に新たに社殿を造営し、神様をお移ししたものである。元の鎮座地は字本宮(もとみや)と称し、田ん圃の中に、籬で囲った石碑が建っている。ここが、もとの「氏神社」の建っていた所である。その石碑には、「仁和寺氏神社御本地 代々能人敬う神乃宮之跡」と刻まれている。そして傍らに小さな石の祠がある。旧社の起源は、伝うるところによると、仁和寺庄に観音寺(※)の建立されると同時に、本宮の地に建てられた白山権現であるとされている。元の産土神は今古宮と称して境内摂社に奉祭する白山権現(祭神・伊弉諾尊伊弉冉尊)であった。寛永十年(一六三三)永井信濃守が当地方の領主となり、領内の産土神菅原道真を祭ってよりは当社の主神として天満宮白山権現とならべ称えることになった。明治五年、当社は村社に列せられたが、明治四十四年一月十四日、燐村の佐太天神社に合祀されて表向きは佐太天神の御旅所となっていた 昭和になって間もなく神様に戻ってもらう気運が湧き、昭和四年以降内務省に、村を挙げて神社復旧運動を起こし、それが正式に復旧を許可されたのは太平洋戦争のさなか昭和十八年七月二十六日付けであり、その翌月の八月二十五日、盛大な還幸祭を執り行い、長い間の村民の願いは達せられた。仁和寺地区のほぼ中央にあって、大木が茂り、鎮守の森としての威容を備え、この神社ならではの感がある。

 

 

住所:大阪府寝屋川市仁和寺本町4-11-29

 

 

(撮影:2017/12/10)

 

【高柳天満宮】(たかやなぎてんまんぐう)寝屋川市

【高柳天満宮】(たかやなぎてんまんぐう)寝屋川市

 

この神社の境内は広く、入って左側に自宅兼社務所があります。
境内の木は保存樹に制定されています。由緒等は不明です。

 

住所:大阪府寝屋川市高柳3丁目19

 

(撮影:2017/12/10)