kazu1000のブログ

kazu1000のブログ / 社寺仏閣巡り 社寺仏閣巡りが好きです。特に神社が好きで関西を中心に廻っています。Instagram:https://www.instagram.com/kazuyoshi1000

【磐船神社】(いわふねじんじゃ)大阪府交野市 (3/3)

磐船神社】(いわふねじんじゃ)大阪府交野市

 

交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。 本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。

 

神社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にもある。 交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が深く関わっていたといわれている。 中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には垂迹神住吉大神の四体が連なる本地仏の石仏や不動明王石仏を初め神仏習合の影響が色濃く残されている。
1987年(昭和62年)には、伴林光平による二首の歌碑が伴林光平先生崇敬会により奉納され、一首は獄中で詠まれた辞世の句である「梶を無み乗りて遁れん世なられば 岩船山も甲斐なかりけり」で、もう一首は『奇国祝』と題され「神国はいわほとなりてうごかねばよせてはかえす沖の白波」とあり、同年の12月17日に当時の住吉大社宮司西木泰の揮毫によって境内の巨石の裏に建立された。

 

 

住所:大阪府交野市私市9丁目19-1

 

アクセス;
京阪交野線私市駅から、京阪バスにて磐船神社前バス停下車すぐ。
近鉄生駒駅から、奈良交通バス北田原行きにて終点下車、徒歩約10分。

 

 

(撮影:2018/4/6)


 

【磐船神社】(いわふねじんじゃ)大阪府交野市 (2/3)

磐船神社】(いわふねじんじゃ)大阪府交野市

 

交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。 本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。
神社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にもある。 交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が深く関わっていたといわれている。 中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には垂迹神住吉大神の四体が連なる本地仏の石仏や不動明王石仏を初め神仏習合の影響が色濃く残されている。
1987年(昭和62年)には、伴林光平による二首の歌碑が伴林光平先生崇敬会により奉納され、一首は獄中で詠まれた辞世の句である「梶を無み乗りて遁れん世なられば 岩船山も甲斐なかりけり」で、もう一首は『奇国祝』と題され「神国はいわほとなりてうごかねばよせてはかえす沖の白波」とあり、同年の12月17日に当時の住吉大社宮司西木泰の揮毫によって境内の巨石の裏に建立された。

 

 

 

住所:大阪府交野市私市9丁目19-1

 

 

 

アクセス;
京阪交野線私市駅から、京阪バスにて磐船神社前バス停下車すぐ。
近鉄生駒駅から、奈良交通バス北田原行きにて終点下車、徒歩約10分。

 

(撮影:2018/4/6)


 

【磐船神社】(いわふねじんじゃ)大阪府交野市 (1/3)

磐船神社】(いわふねじんじゃ)大阪府交野市

 

交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。 本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。
神社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にもある。 交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が深く関わっていたといわれている。 中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には垂迹神住吉大神の四体が連なる本地仏の石仏や不動明王石仏を初め神仏習合の影響が色濃く残されている。
1987年(昭和62年)には、伴林光平による二首の歌碑が伴林光平先生崇敬会により奉納され、一首は獄中で詠まれた辞世の句である「梶を無み乗りて遁れん世なられば 岩船山も甲斐なかりけり」で、もう一首は『奇国祝』と題され「神国はいわほとなりてうごかねばよせてはかえす沖の白波」とあり、同年の12月17日に当時の住吉大社宮司西木泰の揮毫によって境内の巨石の裏に建立された。

 

住所:大阪府交野市私市9丁目19-1

 

アクセス;
京阪交野線私市駅から、京阪バスにて磐船神社前バス停下車すぐ。
近鉄生駒駅から、奈良交通バス北田原行きにて終点下車、徒歩約10分。

 

 

 

(撮影:2018/4/6)


 

 

【産湯稲荷神社】( うぶゆいなりじんじゃ) 大阪市天王寺区

産湯稲荷神社】( うぶゆいなりじんじゃ) 大阪市天王寺区

 

創建年代は不明です。東成区の比売許曽神社の旧社地といわれる場所に鎮座し、境外摂社・御旅所です。御祭神は、宇賀魂命下照比賣命大小橋命。公園の一角に整備された神社です。境内の一段低い場所に玉之井と呼ばれる井戸があり、大小橋命の産湯に使われたという伝承から、社名の由来ともなっています。鳥居をくぐった場所に「桃山跡」の石碑があります。

 

所在地: 大阪府大阪市天王寺区小橋町3−1

 

 

(撮影:2018/3/26)



【鵲森宮】(かささぎもりのみや)大阪市中央区

【鵲森宮】(かささぎもりのみや)大阪市中央区

 

式内社で、旧社格は府社。通称を「森之宮神社」(もりのみやじんじゃ)といい、周辺の地名である森之宮の由来となっている。
聖徳太子の両親である用明天皇・穴穂部間人皇后、および聖徳太子主祭神として本社に祀り、奧社に天照大神月読命素盞嗚命を祀る。聖徳太子物部守屋との戦いの戦勝を祈願し、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。戦勝後の崇峻天皇2年(589年)7月、まず両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺(元四天王寺)を創建した。四天王寺はその25年後に現在の荒陵山に移転したが、当社はそのままとされた。

 

日本書紀』の推古天皇6年夏4月に、聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤金(きしのいわかね)が2羽の鵲を持ち帰り、難波の杜で飼ったという記述がある。その「難波の杜」は当社の森であるとされることから「鵲の森」と呼ばれるようになり、ついには当社の社名となったと伝える。

 

境内に「五幸稲荷社」があります。

 

 

所在地 :大阪府大阪市中央区森之宮中央1丁目14-4

 

(撮影:2018/3/26)

【安倍晴明神社】(あべせいめいじんじゃ)大阪市阿倍野区

安倍晴明神社】(あべせいめいじんじゃ)大阪市阿倍野区

「阿倍王子神社」の北方約50mに鎮座する阿倍王子神社境外社(飛び地境内社末社)。
社名の通り、祭神の安倍晴明はこの地で生まれたと伝えられている。社伝「晴明宮御社伝書」によると創建は1007年(寛弘4年)で、代々晴明の子孫と称する保田家が社家として奉仕し、江戸時代には代々大坂城代が参拝にくるほど有力な神社であったが、幕末には衰微し、明治時代には小さな祠と下記にある石碑のみになってしまったという。しかし、明治時代末期になると復興計画が持ち出され、1921年(大正10年)には阿倍王子神社末社として認可された。社家の子孫である保田家より旧社地の寄進を受け、1925年(大正14年)現在の社殿が竣工した。拝殿は三間社入母屋造で本殿は流造である。

 

境内には晴明の等身大の銅像が建ち、「産湯井の跡」(晴明の産湯に使われた井戸)、「葛之葉霊狐の飛来像」、「安倍晴明誕生地の石碑」がある。産湯は摂津名所図会の頃に既に登場している。石碑は1818~1830年(文政年間)に堺商人・神南辺道心の手によって建立された。晴明が占いの神として信仰されていることに因み、社務所内に「占い相談コーナー」もある。
境内社:泰名稲荷神社。
本殿右側に鎮座。「泰名」とは伝説上の晴明の父親の名である。因みにご祭神は泰名公ではなく宇迦之御魂大神

 

住所:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16

 

アクセス:
阪堺電気軌道上町線東天下茶屋停留場」から徒歩3分。
大阪市営地下鉄御堂筋線昭和町駅から、徒歩12分。

 

 

(撮影:2018/3/6)