【嶋田神社】(しまだじんじゃ)奈良市八島町
【嶋田神社】(しまだじんじゃ)奈良市八島町
祭神の神八井耳命は神武天皇の皇子。その裔の仲臣子上は成務天皇の時代、尾張国島田の悪神征伐に功があり、島田姓を賜ったとの記録があるため、それにまつわる社名とみられている。平安末期より春日大社との関係が深くなり、当社と同じく式内社の赤穂神社、御前原石立命神社、天乃石吸神社と共に春日山中に勧請され、春日大社境内末社の紀伊神社[脚注 1]四柱として祀られている。
当初の所在地は八島陵西の丘にあった、とする研究がある。室町期には八島陵の北、字クラノカヰトにあったとの記録が残り[7][8]、現在八島陵北西に字「蔵六垣内」が残る[9]。江戸期には崇道天皇社と共に八島陵内に鎮座していたとされる。1874年(明治8年)の春日大社の記録によると、当時の社殿は桁行69.7cm、梁行45.5cmの小さなものであったという。
1885年(明治18年)頃、当社と崇道天皇社が鎮座していたとされる現八島陵の地を、早良親王の御陵として整備することが決まり、1886年(明治19年)、崇道天皇社の御神体と社殿を下付され、現在の所在地に二神合祀の形で移築された。
道の片すみの忘れかけられた「不思議な薬師如来」奈良市白毫寺町
道の片すみの忘れかけられた「不思議な薬師如来」奈良市白毫寺町
「不思議な薬師如来」は、右手には、奈良市白毫寺町にある「高円山 白毫寺」(びゃくごうじ)の駐車場の隅にあります。案内板には次のように書かれています。
【人々に安らぎと勇気の施無畏仰(せむいいん)を、左手には、病苦の苦しみを除く誓願を示す薬壺(やっこ)を、お持ちのすがたです。 願う人々、身のやまい、病気、心のまよい等、良く叶えて下さいます。」
また、「高円山 白毫寺」(びゃくごうじ)は、奈良市白毫寺町にある真言律宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は勤操と伝えられています。奈良市街地の東南部、春日山の南に連なる高円山の山麓にあり、境内から奈良盆地が一望できる景勝地に建つ寺。関西花の寺二十五霊場第18番(萩)。
【宅春日神社】(やけかすがじんじゃ)奈良市白毫寺町
【宅春日神社】(やけかすがじんじゃ)は、奈良県奈良市白毫寺町にある神社。高円山西北の麓、能登川の南に鎮座する。祭神は「天児屋根命」「比売神」。
「天児屋根命」は神護景雲2年(768年)、河内国枚岡から大和国添上郡高窓山麓に移座し、同年の11月9日に現在の春日大社の地に留まられたが、高円山の社地が当社地にあたる。創祀以来春日大社禰宜家が奉仕して今日にいたる。山の辺の道沿いの当地方はかつて大宅郷と称して、古代豪族の大宅氏が北大和を領していた際の要衝であった豊かな地域であったと伝わっている。
延宝9年(1681年)林宗甫の書いた『和州旧跡幽考』では、「焼春日」の名で、「平岡明神御影向ましまして、後は本宮の嵩にうつり給ひき。遷宮の後、雷火に社焼しより、俗に焼春日といへり[3]。当代二座のやしろは、一社は春日明神、一社は法明房忍覚をいはひしとなり。」とある。
境内に大山祇命を祀る「山の神社」がある。あたらしく石玉垣をめぐらせ、モチの神木を中央におく祓戸社が整備されている。
【天神社】(てんじんしゃ)奈良市高畑町 (2/2)
【天神社】(てんじんしゃ)奈良市高畑町
「奈良町天神社」とも呼ばれる。北天満の天神社。祭神は、「少彦名命」(すくなひこなのみこと)「菅原道真公」。略縁起では、承保5年(1078年)の草創とされている。後に、元興寺禅定院鎮護の社、興福寺大乗院の鎮守社となった。祭神はもともと少彦名命であるが、この神は手間天神(てまのあまつかみ)という別名を持つことより、一般にてまてんじんと呼ばれた。後に奈良のゆかりの菅原道真公を相殿に祀るようになった。社伝によると、道真が祀られたのは平安時代、白河天皇の御世であったという。
【天神社】(てんじんしゃ)の由緒書きがあり下記のように書かれてあります。
「当神社の境内地を含むこの丘陵一帯は、平城京がわが国の首都であった8世紀、平城の飛鳥とよばれた聖地でありました。
ここにまず祀られたのが国つ神の中心の1柱である少彦名命で、手間天神とよばれ医薬や学問の神としてあがめられました。
平安時代になって、奈良の菅原の地を出自とする菅原道真の名声が高まり、道真の霊を祀る天満宮が各地に奉祭されるのにともなって、ここの神域にも相殿が建てられて御霊信仰の主神であり、学問勉学の神でもある菅原道真公の霊(天満天神)が併せ祀られることになりました。
社伝によると平安時代の白河天皇の時であるということです。
その後、元興寺禅定院あるいは興福寺大乗院の鎮守となり、近世には奈良奉行や近郷の信仰を集めて現在に至りました。」
【天神社】(てんじんしゃ)奈良市高畑町 (1/2)
【天神社】(てんじんしゃ)奈良市高畑町
「奈良町天神社」とも呼ばれる。北天満の天神社。祭神は、「少彦名命」(すくなひこなのみこと)「菅原道真公」。略縁起では、承保5年(1078年)の草創とされている。後に、元興寺禅定院鎮護の社、興福寺大乗院の鎮守社となった。祭神はもともと少彦名命であるが、この神は手間天神(てまのあまつかみ)という別名を持つことより、一般にてまてんじんと呼ばれた。後に奈良のゆかりの菅原道真公を相殿に祀るようになった。社伝によると、道真が祀られたのは平安時代、白河天皇の御世であったという。
【天神社】(てんじんしゃ)の由緒書きがあり下記のように書かれてあります。
「当神社の境内地を含むこの丘陵一帯は、平城京がわが国の首都であった8世紀、平城の飛鳥とよばれた聖地でありました。
ここにまず祀られたのが国つ神の中心の1柱である少彦名命で、手間天神とよばれ医薬や学問の神としてあがめられました。
平安時代になって、奈良の菅原の地を出自とする菅原道真の名声が高まり、道真の霊を祀る天満宮が各地に奉祭されるのにともなって、ここの神域にも相殿が建てられて御霊信仰の主神であり、学問勉学の神でもある菅原道真公の霊(天満天神)が併せ祀られることになりました。
社伝によると平安時代の白河天皇の時であるということです。
その後、元興寺禅定院あるいは興福寺大乗院の鎮守となり、近世には奈良奉行や近郷の信仰を集めて現在に至りました。」